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別に今重たい気持ちでもなんでもないんですが、
今日思ったことをつらつらと。
子どもの頃、「死」について考えたことってありませんでしたか?
死ぬって怖いな、って。
そういうことを考えるときが何度来るかはわかりませんが、
人間いつかはあると思います。
子どもの頃は、生命の終わり=「死」と捉えていました。
歳を重ねるにつれて、それ以外の「死」についても考えるようになりました。
比喩的な「死」ですね。
極端な例を挙げると、殺人犯。
社会的な「死」、そう言っていいと思います。
生命とは違い復帰することが可能ですが、その道は果てしなく厳しいと思われます。
そしてその身内もその人間が犯した罪のために、苦しむ。
これ、東野圭吾の小説『手紙』でリアルに描かれています。
それから考えるようになったのは、
自分が自分だとわからなくなったとき。
これはどう捉えればいいのでしょう?
認知症が進んで、自分が自分だとわからなくなったとき。
精神をひどく病んでしまって、自分が自分だとわからなくなったとき。
そう考えると、なんだか暗い気持ちになってしまいます。
その人は確かに生きています。心臓も、脳も、生命の危機にはさらされていない。
その人は、その人の概念として、存在し続けます。
5年経とうが10年経とうが、
その人の生命が続く限り、「山田太郎」さんは「山田太郎」さんです。
でもそんなこと考えても、意味ないなーって思いました。
大学で紀元前から近代までの死生観を学んだのも影響してるんですかね?
僕は僕自身が「自分」だと認識できる限り、
この世界を満喫してやろうと思うことにしたのです。
父方の祖母と久しぶりに電話をして、そう思いました。
長生きしてほしいです。
先日お亡くなりになった宇津井 健さんと同い年だということで。
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